仮立舎コンテンツ  


● 斎の舞へ 
(版元品切れ・増刷未定。書店・問屋の流通在庫にはあるかもしれませんが、発行所としては流通在庫はチェックできません。古書店でも入手は困難なようです)


  読者のブックレビューを集めてみました。
  

           

 清水宣明・甲野善紀共著 B6版302頁で税込み定価1,800円でした。


 以下に「まえがきに代えて」(清水宣明さん)・「目次」(頁表示なし)・「あとがき」(甲野善紀さん)をテキスト文で掲載いたします。最早、実物の入手は困難で、検索して図書館で見ることしかできないかも知れません。(テキスト文ですので、本になった場合と一行の文字数や活字の大きさや行空けは異なります)


まえがきに代えて
       
違和感の時代から「斎の舞」へ

 「何か変だ」。これが、多くの人々が、現在、この社会に対して抱いている感覚ではないだろうか。理屈は確かに通っているし、科学的な説明では確かにそうかもしれない。しかし、やはり「何か変だ」、納得できない。社会には様々な問題が山積している。理不尽なものばかりにも見える。ところが、この「何か変」な感覚を前提にしてそれらの問題を見てみると、なぜか妙に納得できてしまう。それでは、この「何か変」なものとはいったい何だろうか。何に起因するものなのだろうか。私は、それは現代を生きる人間が持つ、ある種の不整合から生まれる不快感なのではないかと思う。
 私は、群馬大学大学院医学系研究科を職場とする基礎医学者で、ウイルス学が専門である。この二十年間、ヒト免疫不全ウイルス(エイズウイルス)を研究してきた。武術の世界との接点は皆無だった。中学高校の体育の授業で剣道を習ったことくらいしかない。運動が得意なわけでもない。それどころか、大学受験寸前まではクラシック音楽の演奏家を志していたくらいである。
 そんな私が、松聲館を主催する武術研究家の甲野善紀師範との縁ができた。甲野師範が出演したNHK教育テレビの人間講座「古の武術に学ぶ」のオーディエンスとして、突然、参加させていただいたのである。師範に直接会ったのも、技というものを見たのも体験したのも、NHKの収録スタジオが初めてであった。甲野師範が書かれたものさえ、ほとんど知ることはなかった。以来、その言を聞くにつけ動を見るにつけ、何か得体の知れない衝動に駆られるままに、私の心に浮かぶ様を一方的に師範に書き送った。書簡というよりも、「たわごと」とか「世迷い言」と呼んだ方がふさわしい内容である。私は門人と呼ばれる存在ではない。今もって、技など何もできない。
 私は科学者である。ただ、科学者は盲目的な科学の信奉者だと思ってもらっては困る。科学とはあくまでひとつの方法論であって、この世を司る法則でも真理でもない。人間が創り出した道具である。ある規則に基づくこの世の事象の理解の仕方であり、扱い方の示唆である。上手に使えばとてもよい道具だが、使い方を誤れば大怪我をする。科学者も、社会との係わりなしには生きられない。好きなことだけをやって仙人気取りで生きて行きたいものだが、どうやらそうもいかないようだ。そういった中で、昨今、科学者も「何か変だ」という違和感を覚えることが多くなった。
 現代は科学の社会と言われる。科学的という形容詞が、天下御免の印籠のように使われている。科学的という形容詞を冠せられていなければ、信じることも信じられることもままならない社会である。しかし、果たして科学とは、そのような力を持つものなのか。科学という方法論と現代の「何か変な違和感」とは、どのような関係にあるのだろうか。そして、科学とはいったい何か。私は科学を生業とする者として、その答えを得心したいと思う。理屈も賛同も要らない。ただ、自分が「科学とはこういうことなのだ」という実感を得たい。そこから、現代の「何か変な違和感」の原因についての、何かしらの手がかりが得られるかもしれないと思う。
 この過程を進むための多くのきっかけを、甲野師範の言や動から得たように思う。それは、具体的な「答え」や「教え」ではない。直接的な示唆でさえない。与えられたものなど、何もない。それは、自分で考える「きっかけ」でしかない。その「きっかけ」さえも、自分で気付かなければ得ることができない。これは、松聲館における甲野師範の稽古でも同じである。自分で気付かなければ、気付こうとしなければ、何も起こらない。しかし現代では、そういった気付きを呼ぶ「何か」さえも消え去ろうとしている。気付こうとする心さえ、無くなろうとしている。全てにおいてレールが敷かれ、マニュアルを完備することだけに目が向けられている。そして、それと平行して「何か変な違和感」も徐々に大きくなっていく。
 甲野師範に対する社会の注目は確かに大きい。しかし、ここでよく考えてみなければならないのは、我々はどうして甲野師範に注目するのか、注目してしまうのかということである。問題は我々にある。主役は我々である。この疑問をいつも意識のどこかに置いて、私はこの本をまとめ始めた。評論でも提言でもないばかりか、エッセイですらない。思索など生まれてこのかたしたことのない医学研究者が、甲野師範との縁の中で気付いたこと書き留めたものだ。しかし、甲野師範への讃美では毛頭ない。批判的な文章さえ多数含まれている。盲目的な迎合や無批判な追従を極力さけるために、まず自分なりの検証から入るためだ。科学者の基本姿勢は懐疑である。一方、甲野師範は芸術家であると私は思う。芸術家は表現する。しかし、芸術家の表現、すなわち価値とその人間性とは、絶対に相関しない。芸術はおめでたい世界ではない。芸術は異界との接点である。そこには「すばらしい」とか「偉い」という概念も表現も存在しない。読者は、賛同や非難よりも、自分なりに現代の「何か変な違和感」について考えてみて欲しい、感じてみて欲しい。
 本書をどのようにまとめるか苦慮している時、私は突然、ひとつの答えに巡り会った。甲野師範との出遇いと同じく、それは全く予期せぬものだった。三重県多気郡明和町で催された「斎王まつり」での「斎王の舞(いつきのまい)」。それを「答え」と表現するのは適当ではないかもしれない。しかし、私はそこに「あるべきものが、あるべき時に、あるべき場所に在る姿」を確かに見た。この出遇いによって本書は生を得た。その思いを込めたくて、多方面に無理なお願いをして、書名を『斎の舞へ(いつきのまい)』とさせていただいた。この書名でなければ、本書を出す意味は無い。なぜならば、甲野師範に触発されて動きだし、動き続ける私の心の先にあるものが、「斎王の舞」だと確信したからである。
 本書では、私の思索を回顧風にまとめ、第一部とした。武術の稽古における「取り」に当たる。更に、それらに対する「受け」を甲野師範にお願いして、第二部とした。もちろん、この「取り」と「受け」の関係は流動的である。局面に応じて、「取り」が「受け」ともなる。
 バックミンスター・フラー(1895-1983)が提唱した概念に「シナジー( synergy )」がある。シナジーとは、統合された状態となったときに初めて現れ、部分からは示唆されない性質のことである。本書がシナジーであることを願う。その場合の部分とは、私と甲野師範ではない。我々と読者である「あなた」である。

  平成17年5月19日
                          清水宣明



           (いつき)   (まい)
           
斎  の  舞  へ   
 
             目 次
 まえがきに代えて   違和感の時代から「斎の舞」へ 
 第一部  あるべきもの、あるべきとき、あるべきところ    清水宣明
  幻想の世界  
  感覚の世界               偶然の出遇いから  
  永遠の距離               ちょっとした、ありふれたもの  
  術の領域                プロたる所以 
  医学と医術               医療の質を司るもの  
  医療指導者の憂鬱            基本ということ  
  感性を育てる土壌            日本人だからこそ  
  科学実験のレシピ            マニュアルで走る社会  
  統合医療                全体を診る  
  科学と感性との間            観察からの再出発  
  可逆不可逆               科学の一方通行性を考える  
  既成概念の殻              そのままの姿を見つめる 
  一元的価値観、多元的価値観       科学的構成要素とは何か  
  科学的トレーニングとホメオスタシス   現代医学的健康法とは何か 
  善と悪、表と裏             やさしさの暴力と、お互い様の社会  
  不確定要因のドミノ崩壊         矛盾を、矛盾のまま、矛盾なく  
  医術と武術               命の場における術  
  細分化と専門化             必然的不可逆性が意味するもの  
  不全感                 現代科学は、はたして科学的か
  抜去事故のしくみ            想像だにできない身近な世界
  斎王の舞                縁の糸
  人を映す鏡               「斎王の舞」に見えるもの 
  現代侍教育               人となるために  
  必然的表裏の受容            「斎王の舞」をめぐって   
  舞の彼方に             あるべきものが、あるべき時に、あるべき場所に 
  全体性への希求  
 第二部  人間にとって自然とは何か             甲野善紀
  次元の気付き  
  芸術の判断  
  科学の里帰り  
  両立の武術と日本  
  芸の世界  
  否定の姿勢  
  次元の溝を超えるとき  
 あとがき   
 謝 辞

 あとがき 
                           甲野善紀

 清水宣明氏は、その身体のなかに特別仕様の超特大なエンジンを抱えられているのではないかと思うほど、その情熱と集中力が桁外れな方である。
 2003年の9月、初めてお便りを頂いた時に、その情熱の一端を知ったのだが、翌10月にNHKのスタジオで初めてお目にかかった時には、そのもの静かな風貌から、情熱を内に秘めた方という予測はついても、その後、圧倒されるほどの私への思い入れを籠めたお手紙の数々を頂くことになろうとは、全く予想だにしていなかった。
 当初、本書はそのお手紙をそのまま掲載する予定にしていたのだが、清水氏の原稿は、かなり私信的性格を帯びており、公開をためらわせるものがあった。しかし清水氏は御自身がエイズ等のウイルス研究におけるベテランの科学者であり、その科学者としての良心に従った眼で現在の科学界の現状を見つめられ、浮かび上がってきた疑問点について、前例がないほど深く切り込まれている。そのため、この真摯な述懐を世に出さず、私一人の読み物として死蔵するには忍びないと思った。さらに、その述懐を世に出したいという仮立舎の大竹功氏からの強い要望もあり、清水氏に全面的に書き直しをしていただき刊行の運びとなったのである。しかし、清水氏の圧倒的情熱に私のほうが躊躇しているうちに、月日はいたずらに過ぎてしまった。それが昨年の暮れ、「三元同立」と私が名付けた気付きを得て、漸く筆を執ることができた。
 しかし、それだけ時間をかけたお陰で、私が本書のなかで「これから先は、肺腑を抉るほどに私の動きの問題点を指摘する人物との邂逅が、私には必要なのかもしれない」と書いたそのことが、韓競辰老師(中国におられ、現在の韓氏意拳の宗師に当たられる方)に親しくお目にかかることによって、まさに実現したのである。だからといって、韓氏意拳の術理が私を驚かすほど今までの私の技の原理と異なっていたわけではない。それどころか、動きの原理は驚くほど似ている。しかし、展開のさせ方がまるで違う。韓競辰老師の手に触れて、私は「似て非なる」という言葉のきつさ(きつさに傍点)を思い知らされ、もっとも愛読している武術書『願立剣術物語』の四十二段目の次のような記述が、心底、身に沁みた。

  手の内身の構え敵合などよき程と心に思うは皆非也。吉もなし、悪もなし。
   我が心におち、理におち、合点に及ぶは本理という物にてはなし。私の理
   成るべし。 古語に「道は在て見るべからず。事は在て聞くべからず。勝は
   在て知るべからず。

 松聲館道場を開いて26年、かつて、このような言いようのない辛さを感じたことはなかった。しかし、このことに気付いてしまった以上、もう元には戻れない。私は、この先、主として「言葉にならない感覚」を追ってゆくことになるだろう。
 本書は、何よりも、本書の刊行を企画され、辛抱強く待たれた大竹功仮立舎舎主に、御苦労をおかけしたことを御礼と共にお詫び申し上げたい。そして、僅かに本書の中でも触れたテンセグリティに関しては、清水宣明氏が、今後、その情熱を駆使し、この構造原理を生命体に展開した研究において、新たな視点を拓かれることを期待したい。
 最後に、そうした今後の展開に深く関わっていただけるであろう、シナジェティクス研究所所長の梶川泰司氏と、韓氏意拳日本分館の代表であり、韓競辰老師を私に紹介して下さった光岡英稔氏に感謝の意を表したい。

 2005年6月12日


仮立舎コンテンツ