自称・真宗大谷派の一門の超ミニ出版社 仮立舎
     創立登記 平成06年01月の怠惰な出版社のホーム・ページの、附録的なページ


邪定僧の羊吼◇ 序言               (「邪定僧の羊吼」 本文案内へ)

 2013年2月から平成14年9月まで「晩節月報」としてきたものを、2116年(平成28年)5月より再度スタートという形で、しかもタイトルを「邪定僧の羊吼」として再開。再開といえるかどうか、それも問題だが、おそらくネチネチと繰り返しのような発言になるだろうと思う。まあ、本人は真面目なつもりなのだが、他人様にはどう見えるのかは、石をぶつけられるまでは私にはわからない。それよりも、目を通してもらうこと自体が、極めて稀なることであろうし、そこから何らかの反応などということは、期待すべくもない。まあ、その程度のものと、私自身が覚えておけばいいだろう。

 基本的には、「南無阿弥陀仏」を幽閉し続けて飼い殺しにしてきた日本の仏教教団に対して、わけても浄土真宗教団に対してああだこうだということよりも、私自身が受取ってきた「南無阿弥陀仏」を現代日本語で明らかにすることによって、「浄土真宗」における「教」「行」「信」「証」ということを、私自身にわからせたい、そういう思いから述べていることであって、それをもって「親鸞の教えを聞いてきた」ことを明らかにするということをしたい。ただそれだけのことなのである。

 まあ、メクジラを立ててくださるな。

 で、この「邪定僧の羊吼」の基本的に「南無阿弥陀仏」を前提とする。それは、「南無阿弥陀仏」を「仏の本願」、あるいは「いのちそのものの根本願」として受取りつつ、その「南無阿弥陀仏」の内容、即ち「意識内容」を日本語で表すと次のようになる、とすることだ。

  「現実を生きる願に促されたかの方々と、ともにまた、生きて往かん」

この表現は私としては20年以上使ってきた。しかし最近はもっと日本語化を進めて、

  「さまざまにいのちをあらわすかの方々と、ともにまた、生きて往かん」

としている。このような意識内容として受取るならば、私には、とてもじゃないが簡単に・気安く「南無阿弥陀仏」だなんて言えないようになってくる。それほどまでに「仏の本願」の重さ・忝なさを私が意識できるのは、「南無阿弥陀仏」という表現からではなく、「南無阿弥陀仏」の内容が「日本語表記」されているからである。「南無阿弥陀仏」という表現のままで「仏の本願」の内容を感得できるようなタマをしていないのである、私は。
 そして、

  「さまざまにいのちをあらわすかの方々」=阿弥陀仏(=無量仏=諸仏)

  「ともにまた、生きて往かん」=南無


である。「阿弥陀仏」を、無量寿仏でも無量光仏でも無上仏でもなく、極めて単純に「諸仏」という言葉で表現することで、「阿弥陀仏」が生きてくるのである。また、「南無」の原型は「ナマスティ」だと言われている聞いたことがある。もしそうだとするならば、これは「あいさつ」の精神が込められているということだ。そして「あいさつ」こそが、「他者を共同体の一員として認めていく」精神に裏付けられているとしていいだろう。よって「南無」ということも極めて単純に「ともにまた、生きて往かん」で相応しい。

 「南無阿弥陀仏」は「仏の本願である」ということを聞いても、何のことやらハッキリしない。しかし、日本語人が「さまざまにいのちをあらわすかの方々と、ともにまた、生きて往かんという意識内容として「仏の本願」を受取れるならば、人間が簡単に「南無阿弥陀仏」などと言ってはいけないことであることがわかる。「仏の本願」なのだから、「南無阿弥陀仏」と言えるのは仏だけである。もう少し拡げても、「仏のたましいを生きる人」だけが言うことが出来る。私なんぞは空恐ろしくて「南無阿弥陀仏」とは言えないのだ。言ってはいけないのだ。言う場合でも、「単に口まねをしているだけ」という自覚が必要なのだ。恥ずかしさを持(たも)って言わなければならぬのだ。

 私は恐れ多くも親鸞の『顕浄土真実教行証文類』という書物(略称『教行信証』)を読みたいと思っている。で、読む時の心構えを自分に課しているのだが、それは、親鸞自身が「南無阿弥陀仏」のことを「さまざまにいのちをあらわすかの方々と、ともにまた、生きて往かん」ということであることを明らかにせんとして、『教行信証』を著したのだと。そのことは、『教行信証』を読むについて、常に前提として「さまざまにいのちをあらわすかの方々と、ともにまた、生きて往かん」を外して読んではならない、ということだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私は「言うだけ」である。つまり,ここに書くだけだ。反論なり批判なりはあるかも知れないが、これまでに「叩かれてきた経験」からするならば、それは「噛み合わない」論なのであって、「論じ合う」こと自体が、不毛の作業になってくる。
 それゆえ、反論なり批判なりを、あるいは非難なりに応じた私の論を、ここに載せることもしない。メールや文書を頂いても、受け取ったか読んだのかどうかの返事もしない予定である。もし、その人がホームページやブログを持っていて「ここを見よ」と示されれば見るかも知れないが、それへの感想も述べない。だから、引用してタタクのもご自由にどうぞ。

 しかしまあ、余り歓迎はしないが、「どうしても一発、大竹に言っておかなければならない」と思っている方は、下記のメール・アドレスにてどうぞ。あくまでも真宗大谷派の門徒としての立場からの大竹発言であり、お他宗からの指摘は、おそらく噛み合わず、ご返事もすることはないと思う。


 つまり、基本的には一方的に「言うだけ」である。
 何のために? 「南無阿弥陀仏」の「呪文からの解放」のためである。そして、「南無阿弥陀仏」の意識内容の表現が、浄土真宗の「教」「行」「信」「証」であることが諦かであることを、自分自身が忘れないためにである。
 私においては、
 
南無阿弥陀仏=さまざまにいのちをあらわすかの方々と、ともにまた、生きて往かん。
を、「仏願」「本願」として受取ってゆく門徒としての生活規範とする。私の意志や願ではなく「南無阿弥陀仏」をこう受取っているという事である。

 (「邪定僧の羊吼」 本文案内へ)           玄黄洞表紙へ


「邪定僧の羊吼」執筆は、仮立舎代表の大竹 功です。
「どうしても、言っておきたい」ということありましたら、 

   E-mail   2ke7ri5u7sha@minos.ocn.ne.jp

2ke7ri5u7shaから数字を削除して文字を詰めたアドレスでお送りください。大量のスパムメール対策のためです。ご容赦下さい。